『きみのこえ』



繁忙期。
この時期はいつも息つく間もないほど忙しい。
朝に昼に夜に、契約交渉にあちこちを飛び回り、山のような書類に目を通し、
オンラインであがってくる稟議に決裁を下ろす。
それが深夜にまで及ぶことも珍しいことではない。
巷では小学生と言われる年齢であったとて、ひとたび副社長の肩書きを
背負ったからには甘えは許されない。
ビジネスの厳しい競争の中で生き残るには、いつ何時でも強くあらねばならない。 小さい頃から甘えることを許されず、総裁である父に帝王学を厳しく叩きこまれてきた。
それが自分に課された運命であるという諦めにも似た気持ちと、 能力が無ければ務まらぬこと故、自分は選ばれた人間なのだという自尊心―いつもそんな気持ちの狭間で揺れつつも、その現実を受け入れてきたのだった。




そんな目の回るような日々の中で、今日は予期せずぽっかりと時間が空いた。

―いや、空いてしまった。



本来契約の打ち合わせを兼ねたプレゼンを受ける予定だったのだが、
交渉相手のダブルブッキングが発覚して、急遽キャンセルとなったのだ。


訪れた束の間の休息。

「ブルース、コーヒーをいれてくれ。」
『かしこまりました、炎山様。』


ブルースをコーヒーメーカーにプラグインさせる。
しばらくしてコポコポという音とともに、コーヒーの豊かな香りが立ちのぼる。

この淹れたての香りの漂う空間が大好きだ。


なんだかとても落ち着くのは、コーヒーの香りのせいだけでなく、コポコポという音が
母の胎内にいた時の記憶と重なるからかもしれない。
幼い頃亡くなった母の顔は、既におぼろげだが…。

ブルースの淹れてくれるコーヒーは美味しい。
以前、ブルースを遣いにやって不在だった際に自分で淹れてみたこともあったが、
苦味だけが強く出てしまってあまり美味しくなかった。
同じ様に豆を入れてスイッチを押すだけなのに、何が違うのかわからないが、
何故かブルースの淹れるコーヒーは美味しいのだ。

以来、コーヒーを入れるのはブルースに任せるようにしている。

そういえば、そもそもブラックでコーヒーが飲めるようになったのはいつだったか。
以前はあの苦味が苦手だったはずなのに。


いれてくれたコーヒーに口をつけながら、ぼんやりする。


―今日の交渉は相手を見誤ったな。
あんなスケジュール管理能力のない会社では、後々大変になるところだった。
まぁ、契約前にそれに気付けただけ良かったか。
どちらにしろ、今後あの会社との取引はないだろう。





pipipipi pipipipi・・・・



PETの着信音が鳴り、通信を知らせる。

…誰だ?





「あ、炎山?元気ィー?」



PETからやたら元気な声が聞こえる。

…熱斗か…。


ディスプレイに満面の笑みが映し出されている。
こいつはいつも唐突だ。



「何か用か?」

「あのさ、俺、思ったんだけど・・・」










「炎山の声が、一番好きだなー。」




唐突なPET越しの声に、飲みかけのコーヒーを吹きそうになった。

「な…ッ?!」

通信してきたと思ったら、何をいきなり言い出すんだコイツは。

「だって好きなんだもーん♪」

こっちのことはお構い無しで、当の本人は屈託ない笑顔で笑っている。
見かねた青いナビがたしなめる。

『ほら、急にそんなこと言うから、炎山が困ってるよ、熱斗くん』
「えー、好きなんだからいいじゃん、減るもんじゃなし。なぁ、炎山?」
『そうじゃなくって…。それに、今忙しいんじゃないの?』
「え、忙しいの?平気だろ?」


困っているはずの当の本人から2km位話がズレている。
おいお前ら、肝心な俺をおいて、何勝手なこと話してるんだ。

…いかんいかん、こんなことで心を乱すようでは副社長失格だ。


「で、いったい用件はなんなんだ?」
「え、用件?」

熱斗がきょとんとしている。

―まさかお前、この期末で忙しい最中に用件もなしで連絡してきたのか?




「ないよ」






「用件は特にない…っていうか、ちょっと炎山の声聞きたかっただけー。」






ガクリ。
身体中から力が抜ける。




「声聞けたからいいや。じゃ、またなー!」



そのまま通信を切るかと思った熱斗が、PET越しに覗き込むように付け足した。





「あんまり寝てないだろ?ちょっと顔色悪いから、無理しないようにな。」






ふつり。



音をたてて切れたのは、通信か、それとも心を縛っていた緊張の糸か。



…何なんだ。


まったくアイツはいつでも唐突で、突然現れては俺の気持ちを掻き乱して去っていく。
そのくせ的確に核心を衝くことをポツリと言ったりして。

今まであんなヤツに出会ったことはなかった。
周りには大人しかいなくて、表と裏を使い分けてソツなく生きることが当たり前 だと思っていた自分には、正面からなんの駆け引きもなくためらいもなく体当た りしてくる熱斗が眩しく思えた。
惜しみ無く愛情を与えられた者から放たれるその『光』は、
疎ましくもあり羨ましくもあった。


―光が強ければ強いほど、落ちる影は濃く暗くなる。


なんだか胸の辺りにモヤモヤしたものが残る。



自分でも知らないうちに芽生えたよくわからない感情に苛立ち、 胸につかえたものを押し流して飲み込むように、少し冷めかけたコーヒーを一気に流し込んだ。

お互い、この気持ちを形容するものが「恋」であると理解するには、
まだ幼なすぎる2人だった。




***************

まだ2人が(というか特に炎山が)自分の気持ちに気付いていない時の話。
ブルースが何故コーヒーを淹れるのが巧いのかは、謎。

***************